J-anon’s blog

衰退する日本と世界の闇を考察します

何故日本はカバールの標的にされるのか?それは75年前に白人至上の優生学を覆し、有色人種国家を全て欧米列強の植民地から解放してしまったから!!300人委員会、イルミナティにとって絶対に許してはならない有色民族国家、それが日本だ!! PART2

日本の歴史教科書は今現在もGHQの定めたプレスコード(ジャーナリズムにおける掲載禁止事項)を遵守しており、日本はアジアに対し重大な侵略行為を犯したファシズム国家だったとし、日本国民を戦争犯罪者の子孫であるという自虐史観を徹底して埋め込んでいる。

こんなのはもういい加減やめるべきだし、言語同断だ!!

これまで、こんな洗脳教育をまともに受けた日本国民は、少なからず中国や南北朝鮮に対し贖罪の心理を持ち、これら反日国家に多大な援助や技術供与を無償で行ってきた。

GHQの定めたプレスコードは近隣諸国への非難を禁止しているのだから、中国が戦時中日本の居留民に行った通化事件通州事件と言った悍ましい民間人虐殺行為や、韓国による火事場泥棒的な李承晩の竹島強奪事件に対しては報道することもできない為、日本国民は戦前の軍事国家を絶対悪と認識し、武力の放棄、非核三原則など言うとんでもない思想を持った国民が残念ながら大半を占めている。

だが、長年発禁扱いにされてきたユダヤ長老会(サンヘドリン)の重鎮であり、ルーズベルトの顧問も務めたモルデカイ・モーゼ氏の著書「あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい」を読むと、GHQとは、自身がユダヤ人であり、日本への原爆投下を決めたルーズベルトの側近だったユダヤ人ニューディーラー(共産主義者)の残党であり、日本を再武装させないための日本国憲法を作成したのも、連合軍をてこずらせた武士道精神や大和魂という価値観を破壊するために、日本人の精神弱体化プログラム、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムWGIP)を作成したのも彼らであり、GHQが日本を去る際にこの洗脳プログラムを日本共産党に託した、とはっきりと述べている。

日本共産党とはコミンテルンの日本支部であり、毛沢東中華人民共和国を建国した1948年には日本共産党朝鮮総連中国共産党はがっちりと手を結んでいた。

このコミュニストたちが日教組という反日教育機関を作って教育界に入り込み、公職追放で右派が追放された各新聞社の主幹としてメディアに入り込んだのだ。

そして戦後70年間、日本精神弱体化計画、WGIPはメディア、教育を通して継続され、3S政策と共に日本人は国家に対する忠誠や危機意識を持たない腑抜けにされてしまった。

その結果が、金の亡者になり、脅迫に弱く、ハニートラップに簡単に引っかかる政治家や官僚、財界人を大量に生み出したのだ。

だが、この日本人への洗脳弱体化計画WGIPは、わずか75年前に世界で起こっていた真実から明らかに目を背けさせ、下手すると世界を滅ぼしかねない最も危険な武士道という価値観をもった民族の封じ込め、解体を狙ったものであることがネットの出現や勇気ある出版社の手で世に出回り始めた。

まず、今から75年前、1945年の日本の敗戦までの世界がどんな世界であったのか、この事実にメディアは一切言及せず、国定教科書にも肝心な事実が記載されていない。

それは、日本とタイ以外の有色人種国家が全て英仏を中心とした欧米列強の植民地だったという事実だ。

タイは英領インドやビルマ、マレーシアと、仏領インドシナの丁度境界にあり、英仏政府は直接的な軍事衝突を避けるためにタイを緩衝地帯として双方とも植民地にしないという密約を結んでいた。

となると、独自の力で独立を保っていたのは有色人種国家では日本のみである。

植民地というのは他国の政府が軍隊を常駐させて直接統治し、主に資源を略奪するためのものだ。

現地人を奴隷労働させて農産物から鉱物まであらゆる資源を宗主国のヨーロッパに集める。

従って一部の傀儡以外は監視人という形でしか植民地の運営に参加できないし、現地人が資源収奪のために宗主国が作った橋などのインフラを使用する場合には使用税を取った。

もちろん彼らに教育を与えることなどご法度だ。

奴隷に知識を与えてしまえば反乱が起きてしまうだろう事を彼らは知っていた。

当時の文献を読むと、有色人種は白人にむやみに話しかけたり、反抗的な仕草を見せただけで容赦ない暴力的報復を受けたことがわかる。

ある1枚の写真を見て私は衝撃を受けたのだが、それはベルギー領コンゴのカカオのプランテーションにおいて、右腕の肘から先を切り落とされた5~6歳の黒人少年が、おそらくプランテーションの監督者であろう白人に、見せしめのようにその切断された腕を上部にかざされている写真だった。

解説によると、これはカカオ豆の収穫の遅い少年の右腕を切り落とし、作業の遅い人間はこうなるのだ、という見せしめのための写真だったらしい!

彼らはカカオの収穫は行うがその加工品であるチョコレートなど一生口にできなかったというのに!

このような白人以外は全て家畜同然、というのが75年前の世界の常識だったのだ。

異人種間の交際などありえず、やっても殺されたという、今ではありえない時代だった。

その頃の世界は欧米、特にドイツやアメリカにおいてダーウィンの「進化論」に基づく優生学が当然のものとして議論されており、有色人種は白色人種に遺伝子的に劣るものだとされてきた。

確かに、産業革命も科学技術の発展も多くはコーカソイド(白色人種)によってなされており、当時のコーカソイドによる有色人種国家への植民地支配はアルフレッド・アドラーの「権力への欲求」に見られるように「敵者生存」という言葉で正当化されてきた。

言い換えれば、これは「弱肉強食」であって、それは生物学的にも心理学的にも十分正当化される自然の摂理だった。

19世紀の欧米の哲学者も心理学者もこの理論を当然のごとく扱っている。

だが、この価値観を覆したのが、新興列強国ドイツと共に有色人種国家で唯一列強入りした日本だった。

最近、明治維新についてディスカウント・プロパガンダのような意見を述べる人が多いが、まず、些末な意見はともかく、このアジア開放の原動力になった90%無血革命については多くの人が本筋を見誤っていると思う。

何故なら、この明治維新がなければ、今日の有色人種国家の独立も、三つ巴の第三次世界大戦の一大勢力になった共産中国の軍事的台頭もありえないからだ。

例えば出版社なり編集プロダクションを通して明治維新について一冊の本を出そうとしたなら、最低10冊の参考文献(資料)を読み込むことを強要されるし、それでも新説が出なければ企画会議には通らないが、少なくとも出版社という所は一つのテーマに必要な或いは有効な資料が何かは知っている。

このようなやり方で明治維新について調べてみれば、文部科学省や嘘メディアの垂れ流す明治維新の真実とは、維新の志士たちが欧米を出し抜いて列強入りを果たしてしまった事実に到達するのだ。

今はどうかわからないが、20年前、明治維新を考察するために作家やライターが必ず参考文献にしていた海音寺潮五郎さんの「武将列伝」という著作がある。

この武将列伝は古文書からとった当時の戦国武将や明治維新の軍司令官の生の資料の寄せ集めである。

脚色されていない分、生々しい当時の様子がわかるのだ。

そこには、織田信長徳川家康武田信玄真田幸村など有名武将の脚色されていない当時の生資料が公開され、現実の古文書を元に決して美化されていないダーティーな情報も網羅してあり、まさに実録版の解説書とも言える。

この武将列伝の近代編で、武将として掲載されている明治維新の関係者は西郷隆盛勝海舟だけだ。西郷が戊辰戦争西南戦争を率いた武将であるのはわかる。

しかし、海音寺氏は何故武将列伝に勝海舟を入れたのか?

ここに真実がある。

勝海舟は自ら戦争を率いていない。にもかかわらず武将としてピックアップされているのは、実は明治維新という無血革命の総司令官は維新軍の西郷ではなく、実は幕府の重鎮でありながら、分身の坂本龍馬を通して維新の志士たちをコントロールしていた勝海舟だったという結論を述べているのだ。

だから言うが、例えば長州藩はテロリスト、坂本龍馬フリーメーソンに利用されて殺されたと、などという意見は、余りにも当時の参考文献からも維新の志士たちの心情からも遠く離れていて、これはツイッターやネットで暗躍する五毛党やVANKじゃないが、反日勢力の底の浅いプロパガンダそのものだと思えてしまう。

まず、欧米列強の有色人種国家への植民地支配の常套手段は分断支配である。

国家の少数勢力を支援し内乱を起こさせ、そこに軍事介入を行って軍を常駐させる。

ここで少数勢力を名義上は支配人とし、事実上、政治・経済の全てを列強から派遣された提督、総督が握る。

日本もそのセオリーに沿って植民地化されるはずだった。

事実、その布石は打たれていた。英国はグラバー商会を通じて薩摩藩に武器を売っていたし、フランスは江戸幕府に武器を売り、軍事顧問まで派遣していた。

セオリー通りに薩摩藩江戸幕府が内戦に至り、双方が英国、フランスに軍事要請を行い、首都決戦により双方が壊滅状態に陥れば、英仏はそのまま軍を駐留させて日本を2分割するか、戦局を有利に進めた方が日本を植民地にしただろう。アメリカも入って来て3分割もあり得たろう。

何しろ、地政学的に言って、日本列島はユーラシアと太平洋の境界に位置する重要な軍事拠点であって、ここを取ればロシアや中国を封じ込めることも可能だし、逆は太平洋や東南アジアへ南下する拠点にもなってしまうのだ。

だが、ここから明治維新を成し遂げた偉大なる8人の男、7人の侍と一人の老獪な公家は英仏の当初の目論見を粉砕する。

何故なら、この欧米列強の十八番である分断支配のことを何よりもよく知っていたのは、江戸幕府軍艦奉行であった勝海舟であり、維新の志士たちのリーダーだった坂本龍馬はこの勝海舟の一番弟子である。

勝海舟は軍艦を手向けて恫喝した米の黒船よりも、むしろロシアが中国・朝鮮に港を開き、あるいは朝鮮半島を伝って直接日本へ進軍してくることを脅威に感じていた。

この地政学的な脅威を勝が幕府の板倉勝静重臣に告げたところ、彼は軍艦奉行の座を解任されてしまう。

彼の跡を継いだのは小栗忠太郎で、こっちは今では近代海軍の父と呼ばれているが、勝はもう、この時点で「こんな幕府ぶっ潰れてしまえばいい!」と思うまでに不貞腐れていたそうだ。

一方の坂本龍馬は母代わりだった姉の「乙女」に「異国人の首を捕り、手土産に持っていく」と手紙を書いて江戸へ行き、北辰一刀流の師範に上り詰めるほどの剣豪となった。諸国には国力を考えずに次々欧米人に殺傷行為を働く小攘夷派があぶれており、この時点では龍馬も彼ら小攘夷派のヒットマンと大差はなかったのだ。

だが、「異国人の首を捕る」と乙女に書いた竜馬が向かった先は、軍艦奉行からは外されていたとはいえ、幕府の重臣だった勝海舟の自宅だった。

日本を軍艦で囲み、不平等な貿易交渉や治外法権を要求した列強の要請を認めていたのは他ならぬ江戸幕府だ。

そこの重臣勝海舟となれば、相手に不足はない、と龍馬は考えたらしい。

で、勝海舟は龍馬という土佐藩士が会いたがっていると言われて玄関先に出てきたが、勝は龍馬を見て開口一番、こう言った。

「お前、俺を殺しに来たんだろう?そんな目をしていたら一発でわかるぞ?」

ここで坂本龍馬は一本取られて言葉を失ったらしい。

さらに勝は、「ここじゃなんだから、中に入れ…!」と龍馬を自邸に招いた。

そして、この出会いが、その後の日本の、いやアジアを含む全ての有色人種国家を開放する分岐点となるのだ。

勝がこの時龍馬に説いたのは、「大攘夷論」というものだった。

それまでの尊王攘夷論者の活動とは生麦事件や堺事件に見られるような、治外法権に守られた欧米列強の使者や商人、その大元となった日米友好通商条約を結んだ幕府の役人に対する感情に任せた殺傷事件だった。

勝は龍馬に対し、これらを小攘夷論と切り捨てた。

「現状では欧米列強と日本では国力が違う。末端の異国人や幕府の役人を攻撃した所で彼らは却って強硬になり、それぞれが列強を頼って内戦に至れば彼らの思うつぼだ。

内戦に至り、列強の軍隊を頼って彼らの軍隊を駐留させることなどあってはならない。

そうなれば日本国は他国同様、欧米列強の軍隊の指揮下に置かれ、植民地と化すだろう。

日本が清国のように食い物にされないためには、挙国一致して国力を上げ、欧米列強と十分に渡り合える武力を手にしてから列強を排除するしかないんだ!」

この直後、この勝海舟の大攘夷論に感銘を受けた龍馬は勝の弟子になり、姉の乙女に手紙を送っている。

「今、自分は江戸で、勝海舟先生という大層な方の書生となり、エヘン!いわゆる一番弟子として奉公の身に励んでおり、エヘン!オホン!」

エヘン!オホン!は自慢している表現だ。乙女は呆れただろう。

直前の手紙では異国人の首を捕ると豪語していたのに、舌の根も乾かぬうちに今度は幕府の要人の弟子となっている。

だが、この師弟コンビが明治維新という大偉業を成し遂げるのだ。

共産中国を軍事覇権国家を狙うまでに肥大させた鄧小平は、韜光養晦(とうこうようかい)をその国家指針にしていたと言われるが、これは「爪を隠し、隠居を装って、十分国力が付いたところで攻撃に転じる」という意味だ。

これは勝海舟の大攘夷論をパクったものだろう。

鄧小平はアジアで唯一列強入りし、敗戦後に世界2位の経済大国となった日本の政治から経済についてまで事細かに調べていたのだから。

もちろん、明治維新薩長によって完結されたが、彼らは途中の脱線はあったものの、最後まで龍馬を通して伝えられた大攘夷論に従って行動した。

こういうことを言うと、龍馬ファンは怒るかも知れない。

ドラマや小説では龍馬が明治維新の骨子を考え、単独で志士たちのリーダーとして維新を成し遂げたことになっているからだ。

しかし、トランプ革命ではないが、草の根運動的な下級武士や庶民の暴動は革命として成功しない。

その革命が成功する条件は権力側に下級兵士や庶民に対する協力者がいるときだ。

だから私はトランプ革命は成功すると言っているのだ。

明治維新もそのパターンだったからだ。

維新の黒幕は幕府の中にいたが、この時点で勝の大攘夷論は正しいとはいえまだ机上の理論だ。

攘夷論者が各地で天誅騒ぎを起こし、薩摩や長州が英国や米ロ仏オランダの艦船に砲撃を加え戦争沙汰になるなど、ここからどう内戦を避けて挙国一致の体制を築くのかは全く不透明である。

しかし、そんな状況から龍馬はそれをやってのけたのだから凄まじい。

もちろん、薩長の活躍無くして明治維新は成し遂げられなかった。

薩摩藩篤姫の輿入りを通して徳川家と血縁関係を結んでおり、禁門の変で薩摩は幕府軍新選組と共に尊王攘夷の中心を行っていた長州藩に猛攻撃をかけ、尊王攘夷派の中心的シンクタンクであった松下村塾の中でも強硬派だった久坂玄端を始めとする攘夷派の志士たちが多数死んでいた。

この事件で長州は朝敵となり、攘夷派志士たちは散り散りになって潜伏を余儀なくされた。

この事件のきっかけになったのは、安政の大獄による松下村塾の総帥、吉田松陰の処刑である。

松陰はアヘン戦争の清の敗北に衝撃を受け、徹底した攘夷論者となっており、日米修好通商条約を幕府が独断で結ぶと、日本が植民地化される危機を痛切して老中筆頭の間部勝詮の暗殺を試みた。彼は松下村塾の有力な弟子である桂小五郎木戸孝允)、高杉晋作伊藤俊輔(博文)、山縣狂介(有朋)らが及び腰になって引き留めるのを聞かず、間部暗殺を強行しようとして、ついに安政の大獄で獄舎につながれ、死刑確定となってしまう。

もう松下村塾は壊滅の瀬戸際だった。

高杉晋作は悲観のあまり、獄中の松陰に手紙を送っている。

「我々はこれからどうすれば良いのでしょう?武士として、どのように死ぬべきなのでしょうか?」

松陰を監視していた獄司は松陰に対し内心共感していたのだろう。

彼は高杉の書簡を松陰に渡し、松陰は獄司を通し、高杉に返信の書簡を送った。

これが吉田松陰最後の手紙となる。

そこにはこう書かれていた。

 

死は好むべきにもあらず。

 また厭うべきにもあらず。

 道尽き、心安んずる、これすなわち死所。

 

 世に身生きて、心死する者あり。

 身滅びて魂存ずる者あり。

 

 身生きても心死すれば意味なし。

 身滅びても魂存ずれば損なきなり。

 

 死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし!

 生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし!

 

これこそ武士道、それ以外の何物でもない!

この書簡を読んだ高杉は思わず泣いたという。

そして、吉田松陰はその数日後に処刑される。

ここから、後に総理大臣や帝国陸軍の創設者を生み出す松下村塾勢の巻き返しが始まる。

最初は苦難の連続だった。

松陰の意思を引き継いだ久坂玄端を筆頭とする攘夷派の長州勢は、新選組を抱え、長州の攘夷派藩士の弾圧を行っている会津藩主、松平容保の排除を訴え京に進撃した。この禁門の変で幕府、朝廷、新選組らと久坂や来島又兵衛はこの幕府軍と激闘の末戦死。

長州藩の攘夷派は朝敵となって潜伏、逃亡を余儀なくされた。

しかし、総帥の松陰、門下筆頭の久坂を失った松下村塾勢は諦めない。

高杉は、幕府から西洋製武器の導入を禁止され、厳重管理下に置かれ、幕府に従順に従っていた長州藩の執行部を排除すべく、1年後には商人や農民に軍事訓練を施し結成された「奇兵隊」を創設し、長州藩の親幕府派排除のクーデターを実行した。

これによって長州藩は再び尊王攘夷派の松下村塾勢に掌握される。

もちろん幕府は黙っておらず、長州征伐を決めるが、第一次征伐に積極的に加担した西郷、大久保の態度がいきなり曖昧になった。

ここで暗躍していたのが勝海舟坂本龍馬の師弟コンビだった。

結局、間一髪のところで、幕府の討伐軍は小倉の戦いで奇兵隊に惨敗し、長州との調停にあたった勝海舟は一方的に無条件の幕府軍撤退を決め、咎めた将軍や幕臣に逆切れして蟄居するなど、幕府の権威が失墜する事態に陥った。

さらに、第二次長州征伐は幕府側に与していたフランスの意向が強くあったのだが、龍馬は薩摩の西郷や長州の桂小五郎、高杉の間を奔走し、結局薩摩藩大久保利通を通じ、第二次長州征伐には参加しないことを表明した。

この前後に、長州征伐に積極的だった将軍家茂、考明天皇が共に亡くなっている。

考明天皇の綸旨の乱発に対し、不快な思いを露骨にぶつけていたのが公家の岩倉具視であり、彼は幕府に対しても皇室利用と不快感を隠さなかった。

後に勝手に天皇名で薩長維新軍に錦の御旗を与えて幕府を賊軍としたのが彼であることから、岩倉による考明天皇暗殺説が未だにささやかれているし、天皇替え玉説もここから来ている。

そしてこの動乱の最中、坂本龍馬明治維新の中核をなすウルトラCを成し遂げる。

すなわち、禁門の変以来、事実上不可能と言われていた薩長同盟を正に彼が成し遂げたのだ。

薩長同盟なんて当時の状況を考えたら不可能だった。

何しろこの時期、長州藩の実権を握った桂小五郎高杉晋作ら主だったメンバーは全員松下村塾門下生であり、その筆頭だった久坂玄端は禁門の変薩摩藩会津藩旗下の新選組の襲撃により自害に追い込まれているのだ。

桂小五郎木戸孝允)も高杉晋作もこののち何度も逃亡を繰り返し、苦杯を舐めながら長州藩の運営権を手にしたのだから。

だが、坂本龍馬は脱藩して浪士となったことで薩摩の西郷や大久保、長州の桂小五郎高杉晋作とも討幕派として交友を深め、彼らの仲介に立てる立場になっていたし、彼らに勝海舟から受け継いだ大攘夷論を説いていたことから、両陣営の本心もわかっていた。

特に師である松陰の死後、過激な攘夷派となった高杉晋作も、清に遊学した際に欧米列強がどのように清国を分割統治し、食い物にしているのかを十分に学んでいた。

彼は列強が清国の内乱に便乗して軍隊を駐留させ、治安維持の名目に重要地域を租借し、その軍事力と治外法権によって事実上清を分割統治していたことをはっきり見ていた。

そこには白人支配者とその傀儡、そして苦力(クーリー)しか存在しなかったのだ。

ちなみに坂本龍馬が持っていたピストルは高杉の中国土産だ。

薩長の指導層は龍馬の説く韜光養晦(とうこうようかい)、いや、もとい、大攘夷論を十分に理解していた。

後はメンツと感情の問題だったのだ。

事実、西郷隆盛は龍馬から、攘夷派が幕府と同等の軍事力を持つためには尊王攘夷派の二大勢力である薩長が同盟を組むことが不可欠、と説得された際、「こっちは構わないが、向こう(長州)が納得しないだろう」と一旦匙を投げている。

しかし龍馬は、「長州も今日本が置かれた情勢についてはわかっている。なんとかなるはず」と大見えを切った。

そして、その言葉通り、1866年、坂本龍馬は薩摩の最高権力者となっていた西郷と長州のリーダー桂小五郎を下関の小松邸に呼び寄せ、薩長同盟締結のための会談を実施させることに成功した。

しかし、両藩のリーダーが数人の取り巻きを連れて集まったのはいいが、過去のしこりから両陣営の話し合いは全く進まなかった。一説によるとお通夜のような状態で数日が過ぎ、ついに会談の最終日になっても何の取り決めもなされていないという事態になった。

これを聞きつけた龍馬が小松邸に乗り込んで西郷と桂に怒鳴ったという。

「あなたたちは何をやっているんです!?

 こんなことをしている場合ですか!

 薩摩は英国から武器を買っている!

 一方で幕府はフランスから武器を買っている!

 両軍が内戦に至って英仏が援軍名目に軍隊を派遣してきたら、それこそ国内は大乱に陥って列強の軍隊の駐留を許してしまう!

 そうなれば、日本は清国のようにズダズダにされてしまうんですよ!?

 我々は内戦を最小限に抑え、挙国一致して富国強兵に努めなければ、列強を追い払うことなどできない!

 過去の遺恨に囚われてこの国を失うつもりですか!?」

この龍馬の剣幕に西郷も桂も我に返った。

そして西郷、特に桂は英断を下す。

禁門の変の件の事は忘れ、大攘夷をなすために六か条の誓約書を以て、薩摩と長州は軍事同盟を結ぶことを決意した。

しかし長州は幕府から外国製武器の輸入を禁止されており、軍備においては薩摩にとても及ばず列強お抱えの武器商人たちもリスクを冒してまで長州に武器を売らなかった。

ここで龍馬が亀山社中(のちの海援隊)という貿易商社を作り、グラバー商会から武器を買い取って長州に転売、いわゆる密貿易をおこなったのだ。

こうして長州藩は薩摩同様の近代軍備を整えた。

龍馬がグラバー商会から武器を買っていたから、彼がグラバーの背後にいた英国フリーメーソンに操られていたというバカがいるが、グラバー商会、その親会社ジャーディン・マセソンは確かにスコティッシュ・ライト・フリーメーソン、いわゆる英国東インド会社の一派だ。

だが、その真の目的は後であらわになるが、薩摩と幕府の内戦をあおって英国軍を介入させることだった。だが、龍馬はそれを見抜いていた勝海舟の思想の下に動いていたのであり、この師弟コンビが放った次の大政奉還で完全に出鼻をくじかれる羽目になるのだから、お互い利用し合っていたというところだろう。

第一、名目上、薩摩の盟主となっていた西郷・大久保の許可なくしてグラバー商会は龍馬に武器など卸せない。

さらに言うと、Wikipediaはこの薩長同盟について大ウソを書いている。

「駐日英国大使のパークスが高杉晋作と会談を行ったり薩長同盟の下地を作っていた」などと平気で大ウソを垂れ流している。

確かに高杉晋作はパークスに英国製の武器の売買交渉のために会ってはいるが、にべもなく断られた、というのが真相だ。

Wikipediaは少し前まで寄付を募っていたが、このご時世だ。おそらく中国共産党か国際金融資本の援助を受けたのだろう。

ロックフェラーの出自の事も、少し調べれば彼がユダヤ人であることははっきりとわかるのだが、フランス系のユグノー教徒だったなどと90%の真実に10%の大ウソを入れて来るのだから気をつけねばならない。

そもそも龍馬が薩長同盟を成したのは、江戸を火の海にするためではない。

幕府と十分渡り合える、いや、幕府以上の軍事力を持った薩長同盟を成立させたことにより、幕府を交渉のテーブルにつかせるためだ。

軍事力の劣った勢力と軍事的優位にある勢力が交渉を行うなんて不可能だからだ。

龍馬は攘夷勢が幕府を交渉のテーブルにつかせる十分な武力を確保したことを確信すると、元主君であった土佐藩主、山内容堂と会談し、幕藩体制から英国をモデルにした立憲君主制を幕府に導入させることを進言した。

つまり、これまでの将軍と老中による幕府の独断政治でなく、天皇国家元首としながらも、徳川家と諸藩の大名が宰相、議員として、天皇の代理に議会を通して政治運営を行う体制に移行することを提言したのだ。

そして、これが勝と龍馬の真の狙いだったのだ。

そして彼らの意を受けた山内容堂は、薩長を中心とした討幕派の巻き返しに頭を悩ませる徳川慶喜との会談で立憲君主制への移行を進言する。

「討幕派を黙らせるために立憲君主制を導入してはいかがか?

英国には王がいますが、実際に政治を行うのは宰相を議長とした議会です。議会制の議員は有力貴族や諸侯、富豪などが努めますが、その議長である宰相は最も有力な貴族や諸侯から選ばれます。

日本において富や領地をもっとも持っているのは徳川家です。

つまり立憲君主制を導入しても、天皇の全権委任を受けて宰相として政治を行うのは徳川家となります。

これは表向き体制が変わっても、今までと同じことではないですか?」

慶喜は「これは名案!」と思ったのだろう。

この提言を受け、彼は幕藩体制から立憲君主制に移行することに同意し、政権を朝廷に返上することを幕臣に相談なく独断で決めてしまった。

これが王政復古、大政奉還である。

西郷はのちに「薩長同盟大政奉還も、ありゃ全部龍馬がやったこと」と言ったが、大政奉還については、正確には龍馬単独でやったことではない。

そもそも、勝手に脱藩した浪人が、かつての主君と一対一で会合し、かつての主君を動かすこと自体おかしいと思わないだろうか?

これにはからくりがあるのだ。土佐藩主の山内容堂に対し、坂本龍馬の赦免要求を出していたのが幕臣勝海舟であり、容堂はそれに従って龍馬に赦免状を出していた。

つまり、この時点で、山内容堂にとって龍馬は脱藩した元土佐藩士ではなく、勝海舟代理人だったのだ。

それはともかく、慌てふためいたのは幕臣や維新の志士を弾圧していた京都守護職会津藩、その傘下の新選組や京都見回り組などの強硬派だった。何しろ幕藩体制を守るために戦っていたのに、幕府が慶喜の独断で消滅する羽目になったのだから。

彼らにしても、薩長同盟大政奉還の陰に坂本龍馬が暗躍していたことぐらいわかっていた。

だからこの直後に龍馬は近江屋において京都見回り組の寺尾という居合抜きの達人に暗殺されるのだ。

だがこれは、薩長の西郷、大久保や長州の桂、伊藤、山縣らにとっては幕府の裏切りと捉えられた(残念ながら、高杉晋作大政奉還の約半年前に肺結核で亡くなっている)。

薩長は江戸への進撃を開始し、戊辰戦争が起こる。

しかし、もうこの時点で幕府は体をなしておらず、大敗を喫する。

さて、ここでフリーメーソンによる「龍馬暗殺説」について考察してみよう。

龍馬暗殺当日に寺田屋で龍馬と中岡慎太郎に面会を求めたのは京都見回り組の寺尾某であることは当時の記録からわかるし、座ったままの体制から居合切りのテクニックで龍馬の額を切り抜いたことも残っている血しぶきの跡からわかっている。

その後、切り込んだ暗殺団に滅多切りにされながらも数日生き延びた中岡が、「新選組にやられた!」と連呼したことから会津藩新選組は維新軍によって壊滅させられたのだ。

この京都見回り組の寺尾とグラバー、マセソン商会の接点は全く見当たらない。そもそも幕府側についていたのはフランスだ。

ただ、龍馬が暗殺されたことによって維新軍と幕府軍が内戦を始めてくれたことは、英国のパークス、グラバーにとって念願のチャンスだったことは確かだ。

これを機に、英国は外交官アーネスト・サトウを維新軍の総司令官、西郷隆盛接触させ、これまでのよしみに援軍として英国軍を送りたい旨を話した。

「英国としてはもう準備ができている」と。

しかし、勝―龍馬の大攘夷論を受け入れ、列強の植民地支配の手口を知っていた西郷は「やはり来たか!」と思ったに違いない。

「これは日本国内の問題であって、国内で解決すべき問題だ。外国の力を借りることは武士として恥をさらすことになる。心配ご無用!」と一蹴した。

こうにべもなく撥ねつけられては英国軍も介入のしようがない。

大政奉還による徳川家を宰相とした新議会運営は破談になったことから幕府も応戦したが、岩倉具視が偽綸旨を出して薩長軍に錦の御旗を与え、薩長軍が官軍となったこともあいまり、幕府軍鳥羽・伏見の戦いで大敗。

幕府内では維新軍に対する恭順派と徹底抗戦派が論をめぐらしていたが(強硬派はフランス公使レオン・ロッシュ、小栗忠太郎ら)、結局はもうやる気のない慶喜の任命で陸軍総裁に返り咲いた勝海舟が維新軍司令官の西郷との政権移譲交渉に当たることとなった(これによりフランス軍の介入も不可能になった)。

何しろ、維新軍のリーダーと交渉できる男は勝しかいないことを慶喜幕臣たちも知っていたからだ。

そして西郷自身、勝海舟という男が坂本龍馬の背後にいて尊王攘夷派を大攘夷論のもとに団結させ、薩長同盟大政奉還を実現させ、幕政にこだわらない明治維新という大事業を計画した真の黒幕であること、自分たちの大恩人であることを誰よりも知っていた。

そして、この勝と西郷の交渉により、実質内戦のクライマックスとなる首都決戦は避けられる。

江戸城無血開城し、徳川家は政治にかかわらないことを条件に貴族として存続を許された。

ここに勝と龍馬が描いた、内戦を極力避け、外国の介入を許さず、国内一致団結の下に富国強兵を目指すという明治維新は成し遂げられたのだ。

この後は龍馬を暗殺したことになっていた新選組と、それを抱えていた会津藩の粛清の歴史である。

この明治維新がなければ、そして勝の掲げた大攘夷論がなければ、後の日清戦争の勝利も、世界の有色人種国家の指導者、とりわけインドのネールやチャンドラ・ホースを独立運動に導いた日露戦争の勝利もない。

もちろん、大東亜戦争で日本一国が列強と全世界を相手に戦うこともなかったのだ。

そしてこの大東亜戦争によって世界中の有色人種国家が独立することもありえなかった。

映画「ラストサムライ」の冒頭においてトム・クルーズがナレーションで言う。

「神話によれば、神々が剣を振るうとその雫が四つの島になり、日本が作られたと云うが、それは伝説に過ぎない。実際にはこの国(日本)は一握りの勇敢な男たちよって作られた…」

その一握りの勇敢な男たちとは、勝海舟坂本龍馬西郷隆盛大久保利通吉田松陰桂小五郎木戸孝允)、高杉晋作岩倉具視という、七人の侍と一人の老獪な公家である。

そして、勝海舟岩倉具視木戸孝允以外、皆、戦死、処刑、暗殺、病死で維新の前後に死んでいる。

勝も維新が成った直後に隠居し政界を去っている。

日本人は自信を持って言うべきだ。

彼らこそアジア開放の父であり、全ての植民地を開放して白人至上の優生学を覆した偉大な漢たちであると。それがゆえにイルミナティやディープステートは決して日本を許さないのだと。

余談だが、「武将列伝」で明治維新を成し遂げた武将、勝海舟の実像を見ると、やはり当時の日本人の凄まじさがわかる。

もう、豪傑そのものだ。

勝は江戸城無血開城を成した直後に、幕府陸軍総裁として、陸軍の解散式を行っているが、彼が軍の解散宣言を出した途端、頭にきた一兵士が勝に向かってライフル銃を撃ち放った。

弾は勝の顔の横を通過して後ろの幕に当たり事なきを得たが、ここからが凄い。

勝は狙撃されたと分かった瞬間、激高し、「誰だ!今撃った奴は!!」と叫んで白煙の上がった方に全力で走って行った。

撃った兵士は驚き、ライフルを投げ捨てて逃げ出したが、勝は刀の柄を確かめながら執拗に彼の後を追っていった。

二町逃げても勝はしつこく彼を追い続け、兵士は必死で火消し用の水樽の裏に強引に体を押し込んで隠れたが、勝はそれでも刀の柄を握ったまま彼が隠れている周辺を執拗に探しまわったというのだから、本当にしつこい(笑)。

しかもこの時は幕府陸軍の解散式の最中だw。

一方で、解散式会場ではいつまで経っても主催者の勝が戻って来ないため、幕府陸軍は自然解散となったという。

こののち勝は、新政府の執行部となった西郷から海軍大臣に就任することを乞われ、一度は受けたものの、すぐ様辞職し隠居している。

自己の利害関係のために幕府内で暗躍し、明治維新を成し遂げたと思われたくなかったのだろう。

本当に天晴れ!としか言いようがない。

文字通り彼らは欧米列強の分断支配による内戦を避け、挙国一致して富国強兵に日本がひた走り、有色人種国家による初の列強入り成し遂げる下地を完成させたのだ。

この世界史を変えた偉大な祖先たちの偉業を壊そうと必死になっている今の国会内の偽装帰化人や竹中、小泉、財務省主流派の売国奴全員に、勝家の子孫の爪の垢1キロ分をラウンドアップに溶かして一気飲みさせるべきだ!

だが、今やそんな必要もないだろう。

オバマゲートが発覚した現在、奴らはもう粛清リストに入っている。

そもそも、ヒラリーが法律顧問を務めていた中国共産党と、彼らと組むテック・ジャイアンツ、多国籍企業と日本の売国奴帰化人たちは手を切れるのか?

切れなければマイケル・フリンの復活したトランプ陣営は奴らを潰すだろう。

彼らは子供じゃない。真逆だ。社会の多数の善人を脅かす危険分子や殺人者を殺すことが「人殺し」でも「罪」でもないことぐらい十分にわかっている。

 その時は全日本国民の真の祝日となるだろう!

 

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